平成26年、糟谷磯丸翁の生誕250年を迎えるにあたり、親しまれてきた磯丸の功績を末永く後世に残すため「糟谷磯丸翁生誕250年記念事業実行委員会」を設置し、記念事業を実施することになりました。
大勢の方々に「天地のなしたるまま」の磯丸翁の人柄や足跡をご理解頂き、ご支援ご協力を賜りますようお願い申し上げます。

磯丸とは?

  今から250年前、ときは徳川幕府10代将軍徳川家治の時代、明和元年(1764年)5月3日に新之丞(のちの磯丸)は貧しい漁師の長男として、伊良湖で生まれています。

  同じ時代に活躍していたのは、大日本地図の伊能忠敬(1745〜1818年)、樺太調査の間宮林蔵(1775〜1844年)、俳句の小林一茶(1763〜1827年)、地元では田原藩家老渡辺崋山(1793〜1841年)などがいます。

  磯丸が生きた時代には天明の大飢饉(1782〜1787年)、浅間山噴火(1783年)、天保の大飢饉(1833〜1839年)などが起き、大塩平八郎の乱(1837年)のように各地で一揆が起こっています。救いを求めた人々にたいし磯丸は、庶民の願い事や困り事などをまじない歌として詠んでいます。生涯(1764〜1848年)数万首の歌を詠んだといわれています。

  まじない歌とは、主なものとして家内安全、船中安全、雨乞い、安産の歌、病の治る歌、子孫の栄える歌など多数あり、生活に密着したものです。

  貧しい村で育った磯丸は、31歳の時に父を亡くし、母は長い間病気でした。母の病気が治るようにと伊良湖明神(伊良湖神社)に通い、その時に参詣人たちが口ずさむ和歌(奉納歌)に魅かれ歌を詠むようになりました。文字を書く事はできませんでしたが、「無筆の歌詠み」として知られるようになりました。漁師をしながら歌を詠んだことで「漁夫歌人」とも呼ばれています。磯丸は、自然や日常生活からもたらされる苦しみや不安、あるいは希望や期待を純粋にまじない歌として詠み、やがて人々に尊敬されるようになっていきます。

  磯丸の評判は、隣村亀山に住む大垣新田藩の郡奉行井本彦馬常陰の耳に入り、磯丸は和歌や読み書きの指導を受け、常陰を生涯師匠として尊敬しています。「磯丸」の名前も常陰に与えられました。また、鍼医で女流歌人でもあった吉田(現在の豊橋)の林織江が伊良湖を旅した時に世話をしたのをきっかけに親交するようになり、織江の紹介で、織江の師匠の京都の堂上歌人芝山大納持豊の門人となり、気さくで飾らない性格を気に入られ、「貞良」の名前を与えられました。こうして磯丸は京都との交流を深めていきました。

  磯丸の祈りが通じてか母の病気は全快し、伊良湖の大火事の折には磯丸の家だけ焼けなかったという不思議も重なり、人々は磯丸の詠む歌(特にまじない歌)には不思議な力があるとうわさするようになり、嘉永元年(1848年)5月3日に故郷の伊良湖で85歳の天寿を全うし、没後も磯丸霊神として祀られ現在に至ってます。

  磯丸もまた旅人でした。三河各地をはじめ南信州、京都、伊勢、尾張、江戸などを旅して歌を詠んでいます。あなたの近くにも掛け軸や歌碑があるかもしれません。
現在歌碑がある場所は、豊川市長沢町、新城市作手、鳳来町、岡崎市明見町、石原町、宮崎町、鍛埜町、知多市上重原町、田原市、長野県飯田市、長野県松川町、静岡県浜松市豊西町など多数あります。

生誕の地、田原市伊良湖町には
   
磯丸園地にはお墓、磯丸歌碑、伊良湖神社には磯丸霊神の祠、糟谷磯丸旧里碑

 
伊良湖灯台付近には磯丸歌選歌碑群があります。



middle 糟谷磯丸翁生誕250年記念事業

  磯丸冊子 子供向け(pdf)1ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)2ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)3ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)4ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)5ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)6ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)7ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)8ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)9ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)10ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)11ページ目
  磯丸冊子 子供向け(pdf)12ページ目
  糟谷磯丸翁生誕250年記念「 三十一文字(みそひともじ) コンテスト」短歌募集要項(pdf)
  糟谷磯丸翁生誕250年記念「 三十一文字(みそひともじ) コンテスト」短歌応募用紙(pdf)
  募金のお願い(pdf)
  活動報告
  役員紹介
  糟谷磯丸生誕250年記念事業活動予定

お問い合わせ

  伊良湖市民館
  0531-34-2755





inserted by FC2 system inserted by FC2 system